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昔は、この周りに織り元さんが沢山あったんですよ
板締めという技法で、板の間に入れて染める方法を取ってます
もう耳持って引きずり下ろされましたよ
昔は機を織れないといっぱしのお嬢さんじゃなかったわけ
いい繭は出荷して、屑繭は自分たちの物に使ったわけですよね
職人としては私の父がニ代目で、私が三代目
ところが百万、二百万かけても、いい柄でなかったらば一回でポシャっちゃう
こういう職人さんを支えるのはやっぱり家族
変な意味でよその国のことを見習っちゃって
自分で着るんですから、自分に格好良く着ればいい
まずこういうのは幾何学模様で、基本的な大島の模様です
昔は問屋さんには品物持つとすぐわかる番頭さんがいっぱい居たんですよ


昔は、この周りに織り元さんが沢山あったんですよ
うちのパンフレット等を、いろいろヒントになるかと思いますので、あとでご用意いたします。で、織物っていうのは製造工程が相当いろいろあるんです。うちの場合は織元ですので、こういう風に生糸を買って、糸にして、精練をして、柄糸(がらいと)に染めて、織り子さんっていうとこへ手渡しして、最後に織り子さんが織り上げて品物にするんですよ。そういう風な段取りをしてやってるんです。いい原料は今、群馬県から買ってるんですけど、こういう柄糸にしていくわけなんです。昔は、この周りに織り元さんが沢山あったんですよ。それでもう、やってるのが私のとこと義理の弟のとことニヶ所ぐらいになっちゃったんですよ。今、織物協同組合の中で青年部って、若干頑張ってる人が居て、成人式に武蔵村山市であげる大島(紬)の小物の包装をやってまして。(記念品に?)ええ。地元の物をって言うんでね。それも私が働きかけて始めたんです。あと小学生には卒業ホルダーを大島にして。こういう風な地場の物をっていうのでも相当費用がかかるんですけど、まあ自分たちで持ち出して、地元の事だから。(プラスチックより高い?)もう全然。反物自体でもやっぱ十万近い物ですから。(製品は反物と小物?)ええそうですね。

板締めという技法で、板の間に糸を入れて染める方法を取ってます
(板締めの技法とは?)溝を彫った型板の間に白い糸を入れて、両側から押して染料に漬けると、溝に染料が入っていくわけです。そうすると染まるとこと、染まらないとこができて、それを縦横合わせて織っていくと製品になります。これが本場大島ですと、締めばた(機)といって、畳表を織るように、一回木綿の糸で締めるんですよ。そうすると、昔、畳表に墨でいたずらをして、ばらばらばらにすると墨が通ったとこと、通らないとこが出来ますよね? それを利用したのが本場大島です。村山の大島の場合は、この板締めという技法で、板の間に糸を入れて染める方法を取ってます。これが明治の終わりから大正に導入されたんです。(導入とはどういう意味?)村山は弥生時代から織物が出来た場所なんですよ。当然、絹織物なんていうのはまだちょっと後ですけど、屑布(くずぬの)みたいな、そういう繊維を織物にしてくわけですよね。それで、この後ろに狭山丘陵がありますが、ここは早くから先人が住んでた場所なんですよ。南斜面であったかいし、水もあります。それで狩りも出来ます。そういう居住できる立地にあったわけですね。ほいで、この弥生時代の石器の錘(すい)といいまして、糸紡ぐ物が出土した。(その時期にこの技法が生まれた?)いや、まずは土壌ができただけです。そして江戸時代の庶民文化で絣(かすり)という、くくり(括り)の絣が生まれ、この先の中藤(なかとう)っていう所に渡辺っていう女性が考案した記録があるんです。当然、当時としたら藩のそういう仕事ってのは流出しなかったですよね? それで税金を稼いだりしたんですから。ですから久留米絣があったり、伊予絣があったり、だいたいその頃に出来てますね。ほいで明治に入って庶民文化から誰もが絹織り物着れるようになって絹織物、発達して、ここも当然木綿、絹両方やっていたんですけど、もっと付加価値の高い、特徴あるものにしようということで伊勢崎から板締めの技法が導入されたんです。向こうも職人さんが仕事に困ってまして、村山の産地がそういう技術革新を欲しがってるよ、というんで来たんでしょうね。もう夜逃げ同然で来て、それでこの村山大島の元ができてきました。村山大島の場合はこの型板が残りますから、繰り返し、繰り返し出来てコストダウン出来るようになるんです。ですから量産体制が整えられた。それが昭和五十五年ぐらいから逆に少量多品種の時代に入って、個性のある時代に入りましたから、ちょっとそういうものから逸脱してきて、同じ物よりもちょっと変わった技法の物と変わってきたんですけどね。

もう耳持って引きずり下ろされましたよ
(型板は自分で作る?)板は職人さんがいます。板屋さんです。これもやっぱり指物(さしもの)の技術と同じ板物なんですけど、ミヅメザクラといって樺科の木です。民芸家具とか指物の材料です。(もうこの技術の職人さんは多くない?)板締めをやってるのもうちぐらい、全国で。染色してるのはうちだけです。(なんとかして残さなければ?)うん、そうですよねえ。(息子さんも?)今、大学。少しずつ手伝いながら、ええ。(田代さんは子供の頃から手伝ってた?)ええ、そうですね。もう物心ついたら、いろいろさせられてましたし、お祖父さんなんかも厳しかったですから。さっき糸があったでしょ? 積んであるわけですよ沢山。そんな所に乗った日には、もう耳持って引きずり下ろされましたよ。だから糸をまたいだりとか、そういう基本的なことは、うちは誰もさしてないです。糸だとかは飯の種ですし、やはりこういう品物に対しては敬意を払わないと品物だって生きていかないわけですよ。だから私がまだ若手で、業界に十八で入って、問屋さんはその頃すごく景気が良かったですから、反物放り投げますからね。私なんか、何考えてんだ、失礼なことしてんなと思ってましたよ。当時としたら部長さんは偉い人ですから、そりゃ量扱ってんから当然だろうと思ってたんですけど、私なんかはそういう人はいずれ駄目になっちゃうなと思ったら、私が知ってるうちにすぐつぶれました。そういうもんですよ。(物としてしか見ない?)一つの品物が生き物っていう一つの概念だったり、これで飯を食わしてもらってるんだなっていう感謝を出さないと、品物引き立ちませんよね。

昔は機を織れないといっぱしのお嬢さんじゃなかったわけ
いま私がしてるのは刷り込み捺染(なつぞめ)といいまして、白黒の板締めで染まらなかったった白いところに色をかけて、反物に派手さとか、また地味さとか、そういうものを引き立たたせるように、そういう作業です。みんな手仕事はこういうもんなんですよ。ただ村山大島の場合は板締めという技法、基本的な物作ると繰り返しできるという特徴がありますけど、昔は機を織れないといっぱしのお嬢さんじゃなかったわけ、娘さんじゃなかったのね。農繁期には畑に出て、農閑期は機織りで稼ぐと。それで自分のお嫁に行くときには、自分で白生地を織って、京都で染めた物を持っていくとか。(黒い染料は何を使う?)これはヘマチンといって、ロックウッドっていう植物染料、使うんです。これ明治になって入ってきた染料なんですけど、非常に安定をしていて、京都の黒染め、古くは醤油の着色、あとは指物(さしもの)の生地塗り、そういう物に使われてましたね。ええ、今やっぱり一番安定した黒染めの染料です。(ロックウッドは木?)そうです。メキシコ、インド、だいたい赤道からちょっと上下ある所の潅木なんですよ。ロックウッドっていうぐらいですから「岩の木」っていう意味がありまして、非常に硬い木なんですよね。その煮汁です。だいたいフランス経由で入ってきますね。それを基本的にこの村山大島で使います。化学染料よりも堅牢ですし、型板の細い溝に入ってくんです。粒子が細かいんです。(染料はほとんど植物?)先程のさし色は化学染料なんですね。基本的な黒が植物染料。

いい繭は出荷して、屑繭は自分たちの物に使ったわけですよね
明治時代の生糸の輸出が日本の外貨を稼いだ時代があったじゃないですか。そういうので戦艦三笠なんか買ったわけですよね。富国強兵策でね。いい繭は出荷して、屑繭は自分たちの物に使ったわけですよね、捨てないでね。それが全国の紬の産地の基本的な生まれ方ですね。それがだんだん自分で織ったものを着たいという主張が認められて、じゃあそういう特徴があるんだったら私も着たいな、じゃあこれを売ってみたいとかっていう、そういう時代が江戸時代から明治だったと。年表見ますと、大正三年に「日本橋の三越で御召(おめし)よりも紬に大ブーム」って、そういう事柄が載ってましてね。ですから、それとちょうどマッチするんですよね。そういう時代に村山大島が生まれたり、いろいろ紬が出てきて、耐久力があって、それでまた渋い織物ですから、カジュアルウェア、ジーンズ感覚の、今のそういう物の根底がそこにあったんですね。

職人としては私の父がニ代目で、私が三代目
(お父さんが初代?)初代の祖父は田代房吉っていいまして、その名前を取って田房(たふさ)染織っていうんです。職人としては私の父がニ代目で、私が三代目。うちの脇がいま空き地になってますけど、そこも工場だったんですよね。そこが本家で、うちは分家して。この周り田代っていう姓でね、多い。みなさん一家なんですよ。機屋さんだったんですけど、今は物好きのうちだけになりまして。(着物が売れなくなったから?)そういうことですよね。それともう一つは、いかにして作ったものをお客様に届けられるかっていうことが全部問われるようになったわけですよ。だから作ればいい時代じゃなくて、最後までプロデュースするっていうかね。だから今残られてる職人さんは、もちろんそういう情熱もありますけど、自分の仕事をどういう風にやってったらいいだろうって考えてる人も多いと思いますよ。右肩上がりの経済の時と違って、今はもう要らないものは要らないわけですから、いかに特徴を捉えながら時代に則し、プライスも抑えながらお客さんのニーズに添ってくかっていうことが一番の重要なポイントだと思いますね。だから自分の商品はもう独占だなんだって思い上がった商品、絶対駄目ですよ。

ところが百万、二百万かけても、いい柄でなかったらば一回でポシャっちゃう
(柄が変わると型板も作る?)ええ、もちろんそうです。今、貴重品ですから柄もたくさんできませんけども、前は、やはり柄が勝負ですから、どんどん柄を起こしていった時代はありましたよ。(そういう古い板は今も使ってる?)ええ、これ保管も大事ですし、ほどほどに使っていかなくちゃいけないし。ところが百万、二百万かけても、いい柄でなかったらば一回でポシャっちゃう。自動車もそうじゃないですか。意気込んで作ったら全然売れないで一回で終わっちゃったっていう意味。もう「進歩がない進歩」っていうことを日本っていうか、皆さんが知ってかないと駄目ですよ。進歩ばっかじゃ駄目なんですよ。進歩だって円を描けば一巡して元に戻るんですから。だから自分なんか思うのは、やっぱりこういう仕事っていうのは文化を次に伝えるんだなっていうことをすごく感じますね。もう採算からしたら皆さん絶対合いませんよ。ただその情熱だとか、先代の仕事をどうにかしたいとかっていう意志があるからやってるかたが多いと思うんですよね。職人さんと私、父と女房が居るって、もうほんと家内工業ですから、うちうちでやってます。(いろんな工程があって大変では?)ですから、昔はどんどん人集めとか、毎日いろいろやってたんですけど、やっぱりもうよそへ出さないでうちでやってくとかっていうことも大事ですし、そんな手間賃払えませんから。ですからほんと家内工業でやってますね。

こういう職人さんを支えるのはやっぱり家族
こういう手仕事は基本的な技術でやりますけど、個々によって工夫の度合いが違うと思うんですよ。同じ切子でもちょっと違うなとか、どこがちょっと工夫がしてあるのかなとか、それありますね。それやっぱり職人の意地だったり、俺の腕がという誇れる部分じゃないですかね。ですから職人さんの気質って言うか、完成度って言うか、そういうのあると思います。(昔からの技法にこだわってる人もいる一方で、職人が新しい技術使うのは当たり前と言っている人も居るのでは?)やっぱりそういう事を考えながら常にやってるって事じゃないですか? 無造作にやってるようですけども、日々いろんなことを考えながらやってるかたたちが今、一番頑張ってらっしゃるかただと思いますよ。世の中「進歩の無い進歩」を目指してるのは勇気のあることですし、絶対大事ですよ。GNPなんか無いんだっていいんですよ。ヨーロッパなんかでいつ働いてるの?  なんていう国いっぱいあるじゃないですか。日本なんかこれだけ皆さんいい生活して、世界で言えること何にも無いんだから。こういう職人さんを支えるのはやっぱり家族。家族の絆をいかにして、子供たちがちょっと手伝ったり、うちの場合は枠の整理をしたり、ちょっと頼まれた所へ行ってくれたりっていうことは、一番の頑張りどころだし、次の世代に申し送るってのが一番重要なことですよ。だって他人じゃ助けてくれないですよ。大企業と違うんですから。(最近、息子がニ、三年勤めてから戻ってきたっていう職人さんが多い?)うん、やっぱりそれは自然な流れですよ。世の中より家がいいから元へ戻るんですよ。もちろん情熱もあるんですけど。昔はいろんな仕事があったから、格差はあったんですけども、何やっても同じだったら情熱のある仕事をしたいという風だった。

変な意味でよその国のことを見習っちゃって
(「進歩しない進歩」のうしろの「進歩」の意味は?)それは、例えば山に登ったときに戻れる勇気っていうのは大切じゃないですか、ね? 途中まで行ったと、嵐になった、じゃあここは戻ると、そういうことですよね。ですから進歩しないで、そのままで留まる進歩があっていいじゃないかっていうことですね。なんでも数字が伸びたりとかじゃなくて、もっと内面の、何て言うんですか、精神的なレベルアップって言うんですか。この間のお受験の犠牲者じゃないけども、個性ある教育って言いながら全然個性が無い教育なんですよ。だから進歩を求めない進歩、ちょっと矛盾してますけども、そういう時代があってもすごくいいと思うし、そうでないといけない。ヨーロッパなんかもう三百年も四百年も前に作った石のうちに住んでるから、うちを建てなくて住んでられるわけですよ。それで、いつ仕事してるの? なんて言ったって、イタリアだって国力あるし。だから日本の食料が五十五パーセントから六十パーセント輸入だなんていったら、戦争に巻き込まれれば生命線絶たれちゃう。やっぱそういうことが手仕事なんかとすごくつながっているようだなあって思いますよねえ。ドイツでもイタリアでも手仕事の人が認められてたりとか、余裕があるじゃないですか。日本の場合は単一民族だから常に一歩前に出てないと駄目なんでしょうね。そんなこともありますよね。(日本よりも収入が少ない東欧の国でも一ヶ月夏休みを取るように、日本人は勤勉でも豊かではない!)そうですね。そこなんですよね、変な意味でよその国のことを見習っちゃって、ほんとの日本人の風情って言うか、風土って言うか、それが失われちゃったんですよね。

自分で着るんですから、自分に格好良く着ればいい
(最近の着物モニターの詐欺事件は?)あれは無理な売り方をしてるから必ず出ますよ。(お宅の品物もああいう所に?)いや全然。あれは比較的、成人式の物だとか、振袖、付け下げといってフォーマルな物が多いですね。(紬はおしゃれ着?)ええ、どちらかと言うとカジュアルウェアですから、欲しくない人は全然欲しくないし、そういう品物。(着る心得は?)着物着るにあたって制約とか、いろいろあるでしょう? 気にしないでくださいね。皆さんが、そういうことがあるから、着物を毛嫌いしたりする。それと帯の結び方を気にしない。自分で着るんですから、自分に格好良く着ればいい。皆さん昔はそうだったんですよ。(形にこだわり過ぎ?)そうそうそう。だから今着物の着付け教室でも装道とかいろいろあるでしょう? 「道」(どう)っていうの入れちゃうんですね。道なんか入れちゃうと、裏家千家、表千家があるように、もう派閥ですから。そういう風じゃね。「道」はちょっとグレードを上げるには向いてますけど。(着物は手入れが大変では?)まず一昼夜干して頂いて、染みをブラシで落として、それで染みが無ければもうそのまますぐ。なにしろ乾燥させることが大事です。手入も楽しみのひとつと思えばいいんですよね。(注文は柄でくる?)こういう商品は、柄で注文するってことは昔からまず無いです。この柄が欲しいとかっていうのありますけども、やっぱり見比べないと買えない商品ですよね。(現物を?)現物を、はい。(渋いのが向く年代がある?)やはり四十代、五十代以降ですね。ただお若い方でもこういう渋い色大好きだっていう人いるの。最近、皆さんコーディネートお上手ですから、お召しになるかたが自分で決めますね、はい。逆に年配の人は先程のこういう赤いの、こういうの平気で着る。

まずこういうのは幾何学模様で、基本的な大島の模様です
(反物には呼び名がある?)まずこういうのは幾何学模様で、基本的な大島の模様です。あとは市松とか、そういうった感じで、まあ「基本的な模様」と「斬新な模様」ぐらいでよろしいかと思います。これは真綿(まわた)の鬼紬(おにつむぎ)といいまして、昔あった紬を私の父が復活させて、太織りの紬を中へ入れて織り上げた。(真綿っていうのは?)真綿っていうのは蚕の繭を綿状にしたものを紡ぐんですよ。糸にすることを紡(つむ)ぐって言うんです。あと、われわれの所は紬という名前残ってますけども、撚り糸(よりいと)という糸を使ってるわけです。ですからこういう風な緻密な柄が織れるわけです。(昔はみんなうちで紡いでいた?)ええ、そうそうそう。(うちのお袋もやってた!)どちらなんですか? (神奈川県の秦野)ああ、秦野はまた古いんですよ。秦一族が高麗川(こまがわ)を通って向こう行ったんですから。高麗川は高麗(こうらい)つまり朝鮮半島の高句麗(こうくり)の人が帰化した場所ですよね。高麗、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の三国が争って、高麗人がどんどん日本海を渡って新潟や能登に着いて、暖かい地方に南下して行くわけですよ。それで住みついた場所が高麗川なんですよ。高麗川が早くから拓けたっていうのは、暖かくて、前は川があるし、それで高麗人が帰化したかって言ったら、それだけじゃなくてやっぱ望郷の念って言うか、朝鮮の自分たちの生まれ育ったとこに似てるんだそうですよ、地形が。昔は手紙や電話なんか無かった時代ですから、やっぱりふるさとを思ったんでしょうね。それで、もっと南下して、この村山で機を教えて、多摩川を渡ってく。多摩川も「たば川」っていう語源がありまして、丹波山村っていう所が山梨と東京都境にあるんですけど、そこから川が流れて来るんで多摩川。今は橋を車で渡ったってニ、三十秒でパアっと行っちゃいますよ。でも昔は川幅だって七、八百メートルもあった川幅でしょう? それを渡ってってどんどん南下してって、秦野市が秦一族が住み着いた場所です。

昔は問屋さんには品物持つとすぐわかる番頭さんがいっぱい居たんですよ
今は自分のとこで直接、百貨店、あとは呉服屋さん。そうしないとしっかりした売り出来ないですね。なぜかと言うと、昔は問屋さんには品物持つとすぐわかる番頭さんがいっぱい居たんですよ。そういう人たちが良さもわかってるし、絣のずれなんかは傷じゃないって、みんな知ってるわけですよ。ところがそういう人たちがリストラされちゃったりとか、数字、数字で前月との対比なんて言われると出来るわけ無いですよ、もう歳は取ってるし。で、そういう人みんな居なくなった。今の人は通り一遍の数字の出し方は良く知ってるわけですよ。ところが、これはどこの品物だとかってわかる品物が無いから、ほんと無責任なんですよ、売り方が。それが全体を悪くしたでしょうね。だから機屋さんで自分の販路を開拓してやってる所が多いと思います。

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